2018.03.21

巨象の一歩


所長 秋山 勇

先月、6年ぶりにインドを訪問し、首都デリー、近郊都市グルガオン、そしてモディ首相の出身地でもあるアーメダバードを回った。好調なインド経済を反映して、いずれの街も活気に溢れている。デリーに着いて真っ先に気が付くものと言えば、幹線道路での車の多さ、クラクションの煩さ、そしてくすんだ色の空だ。「交通渋滞」と「大気汚染」は、伸び盛りの新興国の特徴。デリーも噂に違わず空気が悪い。スマホを見ると、デリーの天気は「煙霧」と表示されている。筆者が子供の頃に経験した光化学スモッグの記憶が蘇る。

インドに浸透する日本の技術
大気汚染の元凶は何と言っても交通渋滞である。デリーでは、渋滞解消の切り札として、日本の協力で建設された地下鉄「デリーメトロ」に期待がかかる。駅名を表示するロゴマークはロンドン地下鉄風、また赤や黄色に色分けされた路線はワシントンDCの地下鉄と似ているな、などと思いながら、最短乗車区間のトークンを10ルピー(約17円)で買って試乗した。土曜日の日中という時間帯のせいか、家族連れ、買い物客、若者同士といった乗客で、駅は混雑していたが、いざ構内に入ると、日本のお家芸である「便利・清潔・安全・定時運行」といった都市交通技術の粋が盛り込まれたメトロが、インド人の行動様式に様々な変化をもたらしていることが実感できた。

プラットホームを見回すと、日本と同じように、電車の運行予定を表示する電光掲示板もあれば、車両が停車した時の乗降ドアの位置を示すマーク、整列乗車を促すラインや女性専用車両の表示もあった。また路線乗換駅のコンコースには軽食コーナーもある(売っているのはサモウサなどのインド・スナック)。我々にとっては、ごく当たり前のサービスだが、これらがあると無いとでは大違いだ。運行予定がリアルタイムで分かれば、誰もが自分の行動計画を立て易くなる。通勤ラッシュの混雑時であっても、女性が安心して乗車できるようになれば、女性の社会進出を後押しすると共に、新たな都市労働力の供給を促すことにもなる。短い乗継の時間に、効率よく小腹を満たすことが出来れば、イライラも減るはずだ。建設中のアーメダバードも含め、現在はインド全国に50か所以上の地下鉄建設計画があると聞いた。

長距離輸送の分野でも、日本への期待は大きい。1850年代に創業したインド国鉄は、総延長にして6万キロ超に及ぶ線路をインド全国に張り巡らしている。しかし日本でよく聞くインドの鉄道ニュースと言えば、天井まで人が積み重なるように乗車した鈴なり車両と、相次ぐ脱線事故だ。線路の補修が追いつかないのだろうか、現地新聞によると、脱線事故による死者が年に約3万人というから驚きである。また旅客車両と貨物車両が、同じ線路で運行されている地域も多いらしく、そのため貨物がいつ目的地に到着するのか分からないといった問題もある。これでは生鮮品輸送にも支障を来たす。インドではコールドチェーンも未整備であり、野菜の6割近くがロスになっているとも言われる。いまは国内での地産地消に頼らざるを得ないが、日本の鉄道輸送や冷凍・冷蔵配送といった優れた技術やシステムが導入されれば、インド人のライフスタイルも大きく変貌することは間違いない。

モディ政権が目指すもの
人口12億人の世界最大民主主義国家。インドはその広大な土地に多数の人種・宗教・言語が混在する。独特なカースト制度が存在すると共に、国民の貧富の差も大きい。更に中央政府に比べて地方(29州)の自治レベルが高い。要するに極め付きのモザイク国家である。人口の6割を占める低所得の農民は、日々の不満を政治家にぶつける。貧困層ほど選挙での投票率は高く、インドでは現職議員の再選が簡単ではない。即ち自分達の生活を改善してくれない政治家への評価は厳しいのだ。しかし就任後約3年半が経過した今で、モディ政権に対する支持率は極めて高い。筆者が現地で耳にした声も、清廉なモディ氏に対する前向きの評価が多数を占めた。モディ氏率いる与党インド人民党は、宗教保守色が強い政党とされるが、モディ氏自身は柔軟且つ現実的で、モザイク国家を統率する為に、貧富を問わず広く国民のアイデンティティーにアピールするヒンズー教を人心掌握の軸として巧みに活用している。

そのモディ氏が断行した国内改革の中で、①高額紙幣廃止、②物品・サービス税(GST)導入、③倒産法導入、④国民マイナンバー制度導入の4つは特筆に値する。各々は、「不正な現金取引を無くし、汚職と地下経済を一掃する」、「州毎の複雑・非効率な税を簡素化する」、「企業・個人の破産・倒産ルールを明確化し、事業環境を整備する」、「税の捕捉率向上と共に公平な社会保障の実現を目指す」を主たる目的とするが、いずれも、これまで誰もが手を付けられなかった積年の課題の解消し、インド経済の効率化を企図したものである。

アドハー制度が拓く、脅威の世界
中でも注目は、「Aadhaar(アドハー)」と呼ばれる国民マイナンバー制度だ。「Aadhaar」とは、“基本”や“基礎”を意味するヒンズー語である。国民の出生登録や住民登録の管理が不十分であったインドでは、納税者の捕捉が困難であると共に、社会福祉の未支給や不正受給といった問題を抱えていた。この課題に対処するために導入されたのが、顔写真、指紋、虹彩等の個人生体認証情報と12桁の固有番号に基づくマイナンバー制度で、既に国民の9割以上が、この「アドハー・カード」を持っている。登録義務はないとされるものの、「アドハー・カード」は身分証明書としても使われるため、これが無いと、銀行口座開設や携帯電話契約ができない等、実際の生活に不便をきたしかねない。一方で、アドハーに関しては、情報漏えい問題やセキュリティー上の懸念、プライバシー保護の必要性を指摘する声は多く、継続した改善が必要である。

筆者は、デリーで会ったインド人ビジネスマンから、彼が雇っているハウスメイドの逸話を聞いた。この地方出身のメイドはシングルマザーなのだが、アドハー制度が出来ても、何をどうしたら良いか分からなかったそうで、このビジネスマンが、手取り足取り彼女のアドハー登録を手伝ってやったという。後日彼は、このメイドから大感謝の言葉をもらったのだ。聞けば、これまで存在すら知らなかった数々の福祉手当が、メイド自身も知らない間に、自分の口座に勝手に振り込まれていたという。複雑な社会保障の申請手続きが、アドハーによって自動化されたのであろう。その一方、従来横行していた架空口座による不正請求がなくなり、国全体の年金支出は減少したそうである。加えて、これまで納税義務を不当に回避していた個人に対する徴税捕捉率は確実に高まった。こういった“アメとムチ”の効果がうまく作用したことで、一気にアドハーの普及が進んだのであろう。

アドハーの副次的効果も大きい。10億人規模で、消費者の個人プロフィール、税金、年金、銀行口座等のビッグデータが一気に集まったのだ。フェイスブックの利用者数は20億人超、ツイッターは3億人超とされる中、既にアドハーの規模感は世界レベルである。これほど巨大な顧客ベースをビジネス界が黙って見ている訳がない。その肝となるITソフトを生み出すリソースもインドにある。まず、バンガロール(カルナタカ州)やプネ(マハラシュトラ州)は、優秀なIT人材輩出の宝庫である。インドのEコマース最大手「フリップカート(FlipKart)」や、配車サービス最大手「オラ(OLA)」もバンガロール発の企業だ。今はインドのスタートアップ企業に関する情報収集や投資の機会を求めて、グーグルやアマゾンといったグローバルIT企業、 KKRやセコイアといったファンドも、バンガロールに多数オフィスを構えている。

シリコンバレーや深セン、イスラエルと並び、IT系スタートアップ企業の集積拠点であるインド/バンガロールが持つ優位性として、①プログラムに強いIT技術者が多い、②完璧な英語能力、③相対的に人件費や諸コストが安い、等が挙げられるが、もう一つ面白い特徴がある。インドには、“あるもので何とかしよう”という、「Jugaard」(“ジュガード”、ヒンズー語で創意工夫の意)という言葉があり、この精神はデジタル経済にも活かされている。

例えば、インドではまだ4Gブロードバンドは普及途上にあり、今も通信速度の遅いインフラを使用している地域が多いが、インドのジュガード魂は、そのような制約下でも、多種多彩なサービスを可能にするプログラムを考えだす独創性やアイデアに溢れている。将来、先進国並みに通信インフラが整備されたら、どんな凄いサービスが実現するのか、考えただけでもワクワクする。

デジタルとアナログ、双方の良いところを、ジュガード精神を以って、自分達の生活に合せながら、徐々に進化させていくのもインド式だ。

現在は、配送コストの安さもあって、インド都市部でEコマースが広がっているが、今なお、“近所のパパママ・ショップ”も健在だ。「いつものやつを夕方までに実家に届けて欲しい」、「後で払うから、ちょっとツケておいてもらえるか」。スマホのアプリは便利とはいえ、電話一本で痒いところに手が届く、「Kirana」(“キラーナ”、街の雑貨屋)のサービスも捨てがたい。最近は、デリーの下町で、“PayTM(スマホ決済サービス最大手)使えます”という看板を掲げるキラーナが見られる。小銭を持たずに買い物が出来るPayTMの便利さが顧客に支持されているのだ。顧客とのラスト・ワンマイルを、アナログとデジタルのサービスで巧みに差別化するパパママ・ショップ。これからインドのEコマースがどういった進化をするのか実に興味深い。


最後に
今の日本とインドは、嘗てないほどの蜜月関係にある。2014年、安倍・モディ両首脳によって、日印は「特別戦略的グローバルパートナーシップ」の関係に一段格上げされた。日本政府はインドに対し、今後5年間で官民合計3.5兆円の投融資をコミットすると共に、対印投資や進出企業倍増を目標に掲げている。しかし一方、「日本の対印外交は、安全保障面への期待と肩入れが大きく、経済外交がそれに乗っかる形だ」、と冷静に評価する声もある。インドとの連携強化を図るのは日本だけではなく、米国も然りだ。その先には、拡大を続ける中国に対抗するアライアンス構築の意図がある。しかし、こういった自らの持つ安全保障上の戦略性をもって、外交上のキャスティング・ボードを握り、経済基盤の強化を進めるモディ首相の政治手腕も実にしたたかである。

政府の思惑は一先ず横に置き、企業視点でのインド・ビジネスの評価としては、「改革の方向性は理解するも、相変わらず儲けさせてもらえない」、「土地収用が複雑すぎる」、「インフラが未整備」、「法制度の課題も山積み」といった、負の側面を指摘する声が今尚多かったことも事実である。しかし、巧みな外交で、海外の技術や資金を取り込みながら、着実に社会の近代化を進めるモディ政権は、功罪両面はあるものの、アドハー制度導入に踏み切り、デジタル経済の可能性を大きく広げた。あるだけものと、無いものを想像する知恵で勝負する巨象インドが、「潜在性の市場」から「リアルな市場」への大きな一歩を踏み出した。

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