2024.07.11
チーフエコノミスト 武田淳
通常、円安が進めば輸出が増加し、貿易収支は改善する。ただ、実際には輸出を拡大させるまで時間がかかり、むしろ当初は輸入品の価格上昇によって輸入が先に増加し、貿易収支が悪化、ある程度時間が経ってから輸出が増え始めて貿易収支が改善していくことが少なくない。こうしたケースでは、貿易収支の軌跡がアルファベットのJの字を描くことから、経済学では「Jカーブ」効果と呼ぶ。
この考え方に基づけば、円安が進んだ当初に貿易収支が悪化しても、いずれは輸出の増加により急速に改善することになる。そうであれば、米国の利上げ開始を契機に2022年3月から円安が進み始めて既に2年以上になるため、そろそろ貿易収支が改善し、黒字に転じてもおかしくないはずである。実際に、昨年の秋にかけて貿易赤字は一旦縮小した。
しかしながら、以降は貿易赤字が再び拡大傾向にあり、もはや「Jカーブ」を描く気配はない。その最大の原因は、輸出が数量ベースで増えなくなったことである。この2年余りの間に、ドル円相場は1ドル=115円前後から160円超へ約4割も円安が進んだが、財務省「貿易統計」によると輸出は数量ベースで約7%も減少している。
この間、中国や欧州の景気が停滞・低迷し海外需要が伸び悩んだ影響はあるものの、それよりも日本の輸出が為替変動の影響を受け難くなっていることの影響が大きいだろう。1990年代半ば以降、日本の輸出企業は円高の進行による業績悪化に苦しみ、その対策として円高で競争力が大きく低下する製品の海外生産移転を進め、国内生産は為替変動に左右され難い製品が中心となった。
そのため、逆に円安が進んでも輸出は増えない。一部には、海外に移した生産を国内に戻す国内生産回帰の動きも見られるが、全体で見れば、これまで国内の設備投資を抑えてきたことから生産設備の余力は乏しく、人手不足も相まって輸出を拡大させるための増産余地は限られる。
すなわち、Jカーブ消滅の裏側には、円安による輸出数量押し上げ効果の低下があり、円安が進んでも貿易収支の大幅な改善を期待できない日本経済の構造がある。その結果、円安進行が貿易収支を改善させ、実需のドル売り円買い需要が増加、円高圧力になるという、ある意味で為替相場の自動安定機能が失われてしまったわけである。
それどころか、現在のような貿易赤字、つまり輸入が輸出より多い状況では、金額の大きい輸入の方が輸出よりも円安による増加幅が大きくなるため、貿易赤字は一層拡大する。そして、それが新たな円安圧力となり、さらに貿易赤字を拡大させる、という悪循環が続くことにもなりかねない。
今後、海外景気の回復や国内投資の拡大によって、こうした状況が修正される可能性はあろう。ただし、欧州経済は底入れが確認された程度、中国経済は不動産市場の低迷が長期化しており、未だ回復の姿を展望できる状況にはない。国内投資についても、日銀短観などで企業の積極姿勢は確認できるものの、現時点では若干の動意が感じられる程度であり、ましてや輸出拡大に向けた設備増強の動きが広がる気配もない。そのため、少なくとも当面は、円安が輸出を数量ベースで押し上げるとは期待できず、貿易収支の面から円安圧力がかかりやすい状況が続くと考えておくべきだろう。
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