2025.10.23

円高の功罪~物価高対策としての有効性

チーフエコノミスト 武田淳

1985年922日のプラザ合意から40年余りが過ぎた。合意前のドル円相場は1ドル240円台で推移していたが、合意から1年後には150円台へ、実に4割近くも円高が進んだ。大幅な円高により、それまで日本経済を牽引してきた輸出産業は大きなダメージを受けた。その様子を数字で確認すると、合意前の1980年代前半は、平均成長率3.4%に対して純輸出(輸出-輸入)の寄与度は0.7%ポイントだったが、合意後の80年代後半は平均成長率が4.8%に高まる一方で純輸出の寄与は▲0.6%ポイント、つまりマイナス寄与に転じている。「円高不況」という言葉が広く使われ始めたのは、この頃からではなかったかと思う。

80年代後半の成長加速は、一般に「平成バブル」として良く知られているが、その後の「失われた30年」の原点となった資産バブルの一因として、遅すぎた利上げと、それを助長した円高が指摘できる。日銀は、プラザ合意がもたらした円高不況に対応するため、19861月から872月までの間、当時の政策金利である公定歩合を計5回、5.0%から2.5%へ引き下げた。その効果もあり、87年春頃には景気の回復が明確になりつつあったが、最終的に利上げが開始されたのは2年後の895月であった。

利上げが遅れた原因とされたのは、不安定だった国際金融市場への配慮や製造業に偏り過ぎた円高の影響懸念のほか、円高や低価格品の輸入増加により物価上昇が抑制されていたことがある※。実際に、858月まで概ね前年比2%台で推移していた消費者物価上昇率(コア:生鮮食品を除く総合)は、87年前半にマイナスへ落ち込み、その後も893月まで1%を下回り続けた。つまり、円高がインフレ圧力を覆い隠し、金融緩和を長引かせ資産バブルを生み出した一因となった、ということである。

その後も円高は日本経済に悪影響を及ぼす要因とされることが多かった。平成バブル崩壊後、景気の低迷が長期化する中、円高によって生じた大きな内外価格差を背景に、低コストを求めて製造業の海外生産移転が加速、国内産業の空洞化につながった。その結果、過剰雇用が発生、賃金デフレとなって「失われた30年」に至った。こうした長期に渡る負の要素が「円高は悪」という印象を未だに多くの人に与え続けているように見える。

本当にそうなのか。確かに円高は、最近時においても輸出企業の値下げ圧力となり収益を圧迫する。ただ、1985年のプラザ合意から一時1ドル=75円台を付けた2011年まで30年近く続いた円高傾向の下、輸出企業は為替変動の影響を受けにくい供給体制に変えた。ここ3年余りの大幅な円安でも輸出が数量ベースで増えなかったという事実が、その証である。一方、円高になれば輸入品の価格は下がり、輸出・内需を問わず全産業でコスト抑制が業績を押し上げる。そして、その一部は値下げという形で、また賃上げという形で消費者に還元される。

円高が輸出産業へ与える悪影響と、全産業で輸入コストが下がることの恩恵のどちらが大きいのかは、平成バブル期と異なり現在の貿易収支が赤字、つまり輸出よりも輸入の方が大きいことを踏まえれば一目瞭然である※※。さらに言えば、輸入が輸出を上回っているため、円安が進んで輸入も輸出も同じ比率で増えるとすれば、輸入の増加幅の方が輸出よりも大きくなるため、貿易赤字はさらに拡大、それが円安を加速させるという悪循環に陥るリスクもある。つまり、貿易赤字という現状において、円高は物価高で苦しむ日本経済にとってプラス面の方が大きい。

今月21日に発足した新政権は物価高対策を重要施策の一つに掲げているが、その具体策はガソリン減税(暫定税率廃止)や電気・ガス料金への補助金といった、いわば対症療法ばかりである。それはそれで政府の取るべき施策として合理的かつ有効であるが、できるだけ財政負担を抑えることが望まれる現状においては、円高誘導こそが有効な物価高対策であり、それを促す選択肢の一つが過度な金融緩和の縮小、すなわち利上げとなろう。金利負担の増加はインフレの定着で進む価格転嫁によって吸収できるはず。むしろ利上げを先送りし円安を加速させるリスク、さらには資産バブル再来の可能性を意識すべきではないだろうか。

 

※翁邦雄、白川方明、白塚重典、「資産価格バブルと金融政策:1980年代後半の日本の経験とその教訓」、日本銀行金融研究所 Discussion Paper No.2000-J-11 ほか。

※※日本経済情報20254月号「トランプ関税の悪影響を円高・原油安が緩和(改定見通し)」でも簡単な試算をしている。https://www.itochu-research.com/ja/report/2025/2853/

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