2026.08.27
研究顧問 北川 敬三
1990年夏の本社ビル
お盆明け、東京・北青山にある伊藤忠商事東京本社ビルの伊藤忠総研を訪れた。建て替えのため、一時引越しすると聞いたからである。ビルとのお別れの意味もあった。今回のコラムは、いささか個人的な回顧を含め、戦略と組織、そしてそれを動かす人について書かせていただきたい。
実は、私が初めて東京本社に足を踏み入れたのは、ちょうど36年前の1990年夏に遡る。私は米国メリーランド州アナポリスにある米国海軍兵学校の士官候補生であった。なぜ、就活に関係のない学生が来たのか。
それは、当時特別顧問をされていた瀬島龍三さんに呼ばれたから、であった。前年の1989年に同校に入学した私は「戦後初(正確に言うと日清戦争後初、私の前の日本人は1900年に卒業した。私は93年ぶりに日本人8人目の卒業生)の日本人」と全国紙で報道されていた。その他にも今はなき、FocusやThemisという雑誌でも紹介されていた。入校前インタビューを受けた際、瀬島さんを尊敬する人物として発言していたのである。
どうして1989年当時の私が、瀬島さんを知っていたのか。それは、私の高校時代の恩師が、「瀬島さんという立派な国士がいる」、と授業でよく語っていたからである。時は中曽根内閣。行政改革で土光敏夫さんを支えられていたのが、瀬島さんであった。
その恩師の影響もあり、愛読書の一つが、山崎豊子さんの『不毛地帯』であった。主人公の壱岐正のモデルの一人は、瀬島さんと言われている。4年間のアナポリスでの学生生活は、学業でも体力でもとことん鍛えられ、精神的にも辛かった。4,500人の学生の中で、日本人は私一人だけだった。挫けそうになったこと、日本が恋しくなったことは日常茶飯事であった。「太平洋の架け橋になる」、日本人として、へこたれてはならない。そんな時に、『不毛地帯』を読み返し、シベリア抑留を生き抜く壱岐、国家人・軍人としての身の処し方に、どれだけ励まされたか知れない。
瀬島さん、おそらくインタビュー記事を読まれたと推察する。面白い若者だ、と思われたのだろう。わざわざ、アナポリスまでお手紙をくださったのである。それも、自筆で「帰国したら会いに来なさい」とある。
外交辞令の通じない私である。夏期休暇で一時帰国したあの夏、北青山を訪問したのである。インターネットも携帯電話もない時代、おそらく瀬島さんのお手紙の封筒にあった住所に、手紙でも書いたのだろう。その後、晩年までお会いし薫陶を受ける機会をいただいた。孫のような私に対しても、いつも丁寧に接され、必ず部屋を出てエレベーターまで見送ってくださった。
本社ビルのクールダウンルームにて
さて、話を本社ビルに戻す。このビルは長年、多くの社員が行き交い、数え切れないほどの商談や意思決定が行われてきた場所である。訪問したその日、玄関を入ると「ありがとう東京本社ビル」の看板がある。しかし、お盆明けとしても、ひっそりしている。それもそのはず、その段階で、すでに半分の部署が引越ししていたのである。炎天下の中、来社されるゲストのために設置された涼しく、ホテルの香りがするクールダウンルームで、創業者の伊藤忠兵衛氏と伊藤忠商事の歴史を見た後、あらためて伊藤忠という組織の特徴について考えた。
伊藤忠商事は、いい会社である。お世辞ではない。3点ある。第一に、歴史を大切にしている。会社のルーツの滋賀県には、記念館がある。先祖様への感謝を忘れない組織は、続いていく。第二に、構成員を一つにする哲学、すなわちドクトリンの存在である。「ひとりの商人、無数の使命」。元自衛官の私も痺れるフレーズである。第三に、社内を歩くと、社員の士気の高さと明るさが伝わってくる。以上はあくまでも、訪問した数時間で感じたことである。ただ、第三点は、私の知る伊藤忠商事の現役、そしてOBの皆さんが、例外なく伊藤忠を愛し誇りに思っていることから、その分析は正しいだろう。
軍事組織と総合商社の戦略
ところで瀬島さんほど、戦後の伊藤忠商事の歴史と深く結びついた人物も少ないだろう。陸軍士官学校、陸軍大学校を経て大本営参謀となり、終戦後はシベリアに11年間抑留された。帰国後の1958年に伊藤忠商事へ入社し、その後、副社長、会長などを務められた。その人生は、帝国陸軍から戦後の総合商社へという、日本の昭和史そのものを横切るような軌跡でもある。
もちろん、瀬島さんについてはさまざまな評価がある。軍人としての経歴についても、戦後の活動についても、今日まで議論が続いている。ここでその功罪を論じるつもりはない。
私が関心を持つのは、むしろ一人の人間が、まったく異なる二つの巨大組織を経験したという事実である。軍事組織と商社。一見すると遠く離れた世界のように見える。ではなぜ、時代も目的も異なる軍事組織と総合商社に、組織を動かすうえで共通するものがあるのだろうか。
国家や企業を取り巻く環境を読み、限られた資源をどこに配分し、組織をどの方向へ動かすのかという点では、軍事とビジネスは意外なほど共通する部分がある。それは、私が海上自衛隊で長く勤務し、現在は大学で戦略やリーダーシップを研究・教育するようになってから、ますます強く感じることである。そもそも、戦略とは軍事が起点である。
戦略とは、単に優れた計画を作ることではない。将来を完全に予測することもできない。不確実な環境の中で、自分たちが何を守り、何を目指すのかを定める。そのために人、組織、資金、時間といった限られた資源と手段を適時適切に意思決定し、組み合わせていく。その意味では、戦略は国家安全保障にも企業経営にも共通する営みである。
瀬島さんが伊藤忠で過ごした時代、日本企業を取り巻く世界も激しく動いていた。戦後復興、高度経済成長、石油危機、冷戦、そして日本経済の国際化。そうした環境の変化の中で、総合商社は世界各地から情報を集め、先を読み、リスクを取りながら事業を築いてきた。その貪欲さを、今を生きる我々も決して失ってはならない。
本社ビルの余韻と明日への道―全ては人
現在の伊藤忠にも、複雑な戦略を組織全体に伝わる言葉へと置き換える力を見ることができる。岡藤正広会長CEOが掲げた「か・け・ふ」、すなわち「稼ぐ・削る・防ぐ」に代表される社員にも分かりやすい経営目標は、その一例だろう。戦略は経営者だけが理解していても組織を動かさない。一人ひとりがその意図を理解し、自らの仕事に結びつけて初めて、戦略は実行される。軍事では、これをミッション・コマンド(任務指揮)という。
その舞台の一つが、今回建て替えられる東京本社だった。建物というものは不思議である。そこで下された判断も、交わされた会話も、年月が経てばほとんど残らない。しかし、組織には、それらが何らかの形で蓄積されていく。先輩から後輩へ伝えられる言葉であったり、仕事の進め方であったり、危機に直面したときの判断の癖であったりする。それを「組織文化」と呼ぶこともできるだろう。
今回、東京本社を訪ねながら考えたのは、組織の強さとは、結局のところ、こうした目に見えないものに支えられているのではないか、ということであった。
私は戦略を考える際、どうしても「人」に戻ってくる。どれほど優れた制度をつくり、最新の技術を導入し、立派な戦略を掲げても、最後に判断し、実行するのは人だからである。そして人は、組織の歴史や文化から完全に自由ではない。最後に事をなすのは、人である。
伊藤忠は長く親しんだ東京本社をいったん離れる。やがて新しい本社が建ち、新しい時代の伊藤忠がそこから始まることになる。働き方も、商社を取り巻く環境も、瀬島さんの時代とは比較にならないほど変わっている。生成AIをはじめとする新しい技術は、企業活動そのものを大きく変えていくだろう。
それでも、変わらないものがあるのではないか。世界を見て、先を読み、決断し、その結果に責任を負う。そして何より、それを担う人を育てることである。人は去り、建物も変わる。しかし、組織には、その場所で働いた人々の判断や言葉、仕事への姿勢が、目には見えない形で積み重なっている。
この36年間の時空を超えたご縁に感謝し、瀬島さんを訪ねた1990年夏を回想しながら、1980年竣工の東京本社ビルを後にした。
※ 本レポートに関するお問い合わせは、tokdp-komon@itochu.co.jpまでお願いします。
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